急行「各駅停車」 - 311東日本大震災アーカイブ

311東日本大震災の最近のブログ記事

タイトル通り、311から半年、911から10年の日です。

10年前の今日、いつも通り朝7時ごろ起きました。TVをつけると背の高いビルに飛行機が突っ込んでいく映像が目に入りました。「すごい映画だなぁ」、そう言ったのを覚えています。そのまま見続けるとCGとかそういうのではなく、本当に起こった映像だと知り、さらにもう一つのビルに飛行機が再び突っ込んでいく映像を見ました。呆然と画面に見入っていましたが、その後2本のビルが崩れていきました。

体中に鳥肌が立ったのも覚えています。そのまま会社に行きましたが、会社へ着いてから同時多発テロだということを知り、仕事が手につかず半日で帰宅しました。

とにかく目を疑う映像を翌朝まで見続けていました。その後涙が何度となく意味も分からず流れたことも覚えています。

そして半年前の今日は夕方から何年振りかでスキーに出かける予定で準備を終えたころでしたが、大きく揺すられる自分にふと気づき、本棚の本を手で支えるという無意味な行動をとっていました。揺れが長かったのを覚えています。

TVをつけると「大津波警報」という文字が躍っています。隅には震度7、マグニチュード8.4という数字が出ていて大きな地震だったことを知りました。そのままTVを見続けていると港の水面が徐々に上がっていく光景、さらにそれどころではない大津波が襲っている光景が続きました。

当然ですがスキーは中止。何万人という人が行方不明という人生で経験したことのない大災害でした。さらに翌日以降、原発が信じられないような状況になっている...呆然としながらTVを見続けました。大きな余震も何度となく襲ってきてゆっくり眠ることもできず、日を追うごとに情緒が不安定になっている自分に気づきました。

自分に何かできること...それを考えるようになり、4月1日にほとんど思いつきの行動で宮城県の山元町へ救援物資を持って出かけました。信じられない光景が目に焼き付きました

安全で平和、たった5文字ですがそれを得ることは永遠の課題、そう思っています。

4月1日に宮城県山元町へ救援物資を持って行った際のアメブロで公開した記事をこちらにもアップしておきます。内容は同じです

4月1日、午前0時過ぎに救援物資を車に積み込み、宮城県山元町へ出かけました。午前8時には東北自動車道の宮城県白石ICを出ることができました。迷子になりながら東へ走ると津波に呑みこまれた田園が見えてきました。

ボランティア経験も何も無く、ほとんど勢いで飛び出したので被災者支援になったのかも分かりませんが、自分の記憶の補助にと書き留めておきます。

避難所に何かを届けたい、報道と現実のギャップを自分の目で確かめたい、そんな気持はありましたが要の東北道が全線通行できるようになったのが数日前でした。

車に鉛筆と消しゴムと鉛筆削りとメモ帳などの私のお店で扱っている文房具と、スーパーでかき集めた塩、胡椒、七味、からし、わさびなどの調味料、お菓子を持って出発しました。

着いた所は山元町の坂元中学校。学校のすぐ横まで津波は来ていました。

持参した物資は避難所の窓口に持っていきました。深々とお辞儀をされ、申し訳ない気持ちになりました。ジャージを着た高校生が応対してくれたのが印象に残っています。掲示板には尋ね人の張り紙が多数ありました。iPhoneで掲示板ごと写真に収めて、帰宅後に文字に直してGoogleの災害支援のページにアップしました。

以下に避難場所の人の要望など、覚えていることを少し書いておきます。

  • 避難場所では音の出る食べ物は敬遠されていて、羊羹とかチョコレート、しっとり系のクッキーが好まれているみたいです。
  • 圧倒的に不足しているのは女性用下着、女性用の24.5未満のサイズの靴だと言われました。
  • メディアなどでは支援される物資と今欲しい物資にギャップがあると報じられてますが、避難所単位で必要物資はかなり異なっている事も知りました。
  • 味なんて忘れてた、というおじさんはレトルトでいいからカレーが食べたいと言っていました。

ボランティア志望の人に待機場所や食事その他は自前でというボランティアに対する要望が報道されてますが、避難所では、個人宅に避難している人達か増大しているので、その個人宅へ物資や情報を届けてくれるボランティアが沢山欲しいというのが本音としてあるみたいです。というか、それが現状でした。

各避難所の殆どにはかなりの自転車が提供されていますが、年齢的な事や地理的な高低差であまり利用されていないそうです。

国道のような道路はガレキも殆ど撤退されていますが、裏通りなどは歩くのもやっとの道路が殆どで、自転車ではパンクは常に覚悟していないと厳しいという印象を受けました。

避難所の人達は話し相手というか、話を聞いてくれる人を切望していると感じています。ドラム缶のたき火で暖をとるおじさんのところへ行くと、津波に呑み込まれたけど辛うじて助かった、という話をしてくれました。

ボクのような人にも、次々と震災津波被害の話をしにきた人が多数いました。話を聞いてあげるだけでもボランティアとして大事かもしれません。

自分がなぜ山元町を選んだり、坂元中学校を選んだか、具体的行動をどうやって決めたかというと、googleサイトで避難所マップが公開されていて、それを元にあまり報道されてなさそうな町村部を勘で絞り、新しい情報もググって下調べをしまして決定しました。

現地での救援活動、移動には車は必須である事も実感しました。

宮城県に限れば、国道六号線に沿った地域が何十kmに渡って甚大な津波被害を受けていましたので、何々市という行政範囲ではなくて町、村がより支援を欲していると思います。

テレビなどで取り上げられない地域は救援格差が深刻です、と現地での人は言っていました。おじさんが「仙台市は羨ましい...」と言っていたのも印象に残っています。

別なおじさんに東京の方は花見か?って言われました。まだ咲いてないですよと返したら、こっちに分からないように盛り上がって欲しいね、テレビでみちゃうんだけどね...少しでも被災地の復興につながる事をしたいとあらためて思いました。

津波が襲った地域で必要なもの、僕が何度も聞いたのは安い中古車。市街地の道路はバスなんかとても通れない。延々と瓦礫が道路にはみ出して積み上げられています。現地の中古車屋さんには安い軽自動車の在庫はすでになく、高級車ばかりが売れ残っていました。

以上色々書きましたが、そもそもの行動の発端は日本赤十字からの義援金が個人に届くのは、一年くらい先だと聞いた事なのです。

現地では今が大切な時、と自分で勝手な理解をして行動してしまいました。そして現金寄付は僕はしていません。でも行って良かったと思っています。またタイミングを見計らって行きたいと思っています。

宮城県山元町はいちごの生産地です。梅が満開を迎えていました。写真の一部はこちらのサイトで公開しています。